夢は愚かな避難所

一生見られそうもないものなど、見たいとも思わぬ。

コスモス

鮮やかなさよなら 永遠のさよなら 追い求めたモチーフはどこ
幻にも会えず それでも探していた今日までの砂漠
約束の海まで ボロボロのスポーツカー ひとりで行くクロールの午後
きみの冷たい手を 温めたあの日から 手に入れた浮力

囁く光浴びて立つ きみを見た秋の日
寂しげな真昼の月と西風に 揺れて咲くコスモス
二度と帰れない

鮮やかなさよなら 永遠のさよなら 追い求めたモチーフはどこ 
幻にも会えず それでも探していた 今日までの砂漠

あの日のままの秋の空 きみが生きていたなら
かすかな真昼の月と西風に 揺れて咲くコスモス
二度と帰れない

鮮やかなさよなら 永遠のさよなら 追い求めたモチーフはどこ 幻にも会えず それでも探していた 今日までの砂漠

スピッツ 「コスモス」


遠く離れる母を自分の暮らすところへ呼び、生まれたばかりの自分の子供、つまり母の孫にあたる赤ん坊に会わせるのは「母に失礼だからとてもできない」から「できたら子供を連れて母の所にあいさつに行きたい」と言った男の話を「ありえない話」として聞かされ、至極当然「ありえない話」としておれは受け入れかけたけど、立ち止まってしまった。 それはあってはならないことなんだろうか。
そうかもしれない。嫁姑問題がこんなにもメディアを通して茶の間に浸透したいま、この男、夫の姑への思いやりは、初産を終えたばかりの妻に対してやはり配慮に欠ける行為だとはおもう。
でも、なんだか、ふつうの男ってのは、すごく母を思いやってしまう生き物なんだろうなと、ふと感じてしまった。

翻っておれは、母を思いやることに対して勝手に困難を覚えてしまって彼女を傷つけ、自分の気持ちをないがしろにして、ついには、もうちょっと思いやったら?なんて人に忠告されるほどまで、思いやることを過度に嫌った、いやこの際はっきり言うけど、マザコンにならないように自分を律しようとしすぎた。



人はひとりで生まれてひとりで死んでいくなんて言うけど、孤独に生まれて孤独に死んじゃいけないと思う。


最後に電話したとき、「私はあなたに何を言われても自分の子供だったから大丈夫だって思ってきたしあなたにもそう言ってきたけど、ごめん、いまはちょっとキツい」と言われた。今となっては、心身ともに限界近くなったから出た言葉だとわかるけど、そのときは彼女が夫との問題に悩みきってそんな弱音を吐いたとばかり思っていた。もちろんあの言葉にはたじろいだけど、悩みから来る一時的なものだと思っていた。
ちょっと考えれば分かることだ、あの人は、自分の悩みで子供の言葉を受け入れられなくなってしまうような弱い人ではなかった。終わりを感じたから言ってしまったんだろう。


おれらのよく知る女は親を最期まで面倒見るという面倒なことになったらしい。
それに比べたらあまりにも「鮮やかな 永遠のさよなら」だったわけだけど、そしてそのことに今日までめちゃくちゃ甘えてきたけど、さいきん好きになったスピッツのこの曲を寝る前に改めてじっくり聞いていたら泣けてきた。勢いに任せて生前彼女が好きだった曲を何曲か立て続けに聞いたけど、いつのまにかこぼしてる涙がまったく自分のためになったことに気づいて、だったらいっそのこと、と、自分のためにこんな文章を書いて今日にケリを付けさせてもらいました。
 

こんな小春日和のおだやかな日はあなたのやさしさが沁みてくる
明日嫁ぐ私に苦労はしても笑い話に時が変えるよ心配いらないと笑った

 

妹にこんな言葉をかけてくれる人がもういなくなったのは本当にかなしい。
キッチンで換気扇の下に座って煙草を吸いビールを飲む母と、冷蔵庫にもたれてベタッと座りこんだ妹が話している光景はよく目にしたけど、彼女らがどんな話をしていたのかはまったく知らない。