仕事で生きるか、生活で生きるか、さもなくば死
「その池も桜も極く当たり前なものだった。それならば冬それを眺めた時の異様な印象はただその通りに見るに堪えないということだけですむのではないかという気がして来た。そういうものは我々の周囲に幾らでもある。それは見るに堪えないのであるよりも見るべきでないので人が裸になった時には目を背けなければならない。その池が裸のときに見たのだった。そこに深淵が覗いていると思ったりするものは精神に異常を呈しているので誰も死ぬ時が来るまでは死にたくないならば気違いになることも望みはしない」
吉田健一『東京の昔』からの引用。
わざわざひとの裸を見たいと思うのは確かに野暮だ。おれは道行く女のいちいちに対して此奴は男の前でどんなふうになるんだろうと夢想してみたりするが、これは「精神に異常を呈している」と言っていいのだろう。
べつにあらゆる風景や人間の言動のすべてに意味があるわけではない。それはただあるからある、そう思えたらこの世は実に生きやすいんじゃないだろうか。
風景描写が人間の心境の比喩であると学んだのは学校でのことだ。そんなこと知らん。そう言い切りたい。