夢は愚かな避難所

一生見られそうもないものなど、見たいとも思わぬ。

雑記ってかっこいい。

だいぶご無沙汰。代わり映えのしない毎日、代わり映えのしない心境、わざわざ書くようなことのない日々。
週に一回の勤務先でようやく社員の人と軽口叩けるようになってきたかどうか。まあ小馬鹿にされるようになってきたのである程度いい関係になってきたのかもしれない。こっちがある程度人間性を出さないことにはあっちは何も踏み込んでこないんだなあと思った。あっちの方が多勢なんだしこっちに色々けしかけてくるのかと思って待ってたら3ヶ月くらいあっという間に過ぎてった。痛くてもいいから(というかおれの現在がだいぶ痛いのは事実なんだから)そこを必死に取り繕おうとするよりもガンガン出してった方がいいわな。ただおれが組織で先輩とか上司の立場になってひとりで入ってきた新しい人間がいたらガンガンいじるとは思う。そういうの好きだから。圧倒的な立場を利用して下のものをガンガン弄りたい。そういうことは昔からしたいタイプの人間だ。上下関係を利用して尊敬とか得たい。

 

昔は上下関係の下から上に媚びたり可愛がられたりするの上手だった気がする。なんでそういうのが下手になったかって、虚栄心が芽生えたからだと思う。虚栄心と無縁だった頃は、とにかくおどけて人の気を引いてバカにされようが哀れに思われようが、とにかく人に面白がってもらいたいと思っていた。それがいつからか自分は高尚なことも考えているんです、という風に思われたくなって、そこから空回りした。小学生の頃から政治的な話題とかは好きだったけど、そういうサムいことは自分の趣味の範疇でやって表向きはおどけてる方がかっこいいと思っていた。やっぱり小学生くらいの頃のおれがこの人生の中でいちばんまともだった、大人だった、そう思う。
やっぱり難しいことを言いたがるような下っ端は可愛げがない。おどけていたり、ボロが出たり、たとえシニカルな物言いが鼻につくタイプの人間でもどこかそのロジックにほころびがあってそれを自分でも気づいているから突然熱くなってしまうような、若者らしい危うさみたいなものがほしい。俺自身そういう人間の方が多分好きだ。

 

前回ブログを書いてから2週間ちょっとしか経てないのか、もっともっと長い日々が通りすぎてったかのように思える。

 

この2週間ずっと雨が降っている気がする。今年の梅雨は本当に癪に障る。今年の梅雨は人生でもっとも雨の降られている気がする。外を出歩きたいのに雨が降るから遠くまで歩いていけないこと、そしてこの低気圧のせいで蓄膿症が疼くのがつらい。洗濯物も乾かない。あと、寒暖の差が激しいのがむかつく。それに合わせられない電車の空調も腹立たしい。おれは物を無くしやすい性格(これは性格というのだろうか)だから、高価な傘は買わずにビニール傘なのだが、きのうは案の定傘を盗まれて腹が立った。きのうは自分で無くしたわけじゃなく盗まれたのだ。ビニール傘だから勘違いして取ってったんじゃない? と言われるかもしれないけど、そうじゃない。おれはちゃんとあの傘に目印を付けて置いたんだ。わかりやすい目印を。それは松屋の傘立てにビニール傘を入れた白のフレアワンピースがよく似合う柔らかい茶色のロングヘアをもった女から学んだ。彼女はピンクの髪ゴムを傘の柄の部分に巻き付けていたのだ。まるで『シンドラーのリスト』の少女さながら、『野獣の青春』の椿のように、ビニール傘の柄に巻き付いたその髪ゴムは印象的だった。
だからそれを真似ておれも何かビニール傘に巻きつけておこうと思ったのだけれど、髪ゴム的なものはないから、キーホルダーをつけておいたのだ。なのに、誰かは当然のように取っていった。だからおれは名も無きビニール傘を取っていった。やけくそだった。

 

きのうビニール傘を失ったのはZepp Tokyoでのことだ。NHKの企画で5組のアーティストが出てくるライブがあってその観覧券が当たったから行った。正直、女王蜂も浅井健一も期待はずれだった。大森靖子だけはやっぱりすごかった。
Zepp Tokyoに行くたびに青海と青梅を間違えたことを思い出すんだろうな、と思う。

 

今話題の『マッドマックス』もちょっと前に見た。荒唐無稽感にうひょーってなることはなくて、むしろしっかりとアクションを描いた見やすい映画だったようにおもう。多分みんなが言っている頭が悪くなるようなアドレナリン全開の映画っていう表現は画面に映るアクションよりもその世界観に対して向けられていることばなんだとおもう。冒頭の脱出シークエンスもフュリオサ&ワイブス対マックスの肉弾戦もわかりやすかったし、カーチェイスもどの車に誰が乗っているのかとかキャラクター付けがちゃんと出来ていて好ましかった。『トランスフォーマー』シリーズなんてのはアクションのどこに目をつけたらいいのかわからないハチャメチャ映画で、それとは対極にあるのがこの『マッドマックス』だったと思う。個人的には1の方が好き。

 

他にも『戦場ぬ止み』や『Mommy』などを見た。全部良かった。『戦場ぬ止み』は沖縄の基地反対運動に密着した映画で、沖縄の放送局が制作したこともありもちろん反対運動からの視点で描かれているから違和感を感じる人も少なくないのかもしれないけど、運動する彼らのことばは行動しながら自分の頭でしっかりと考えた結果の現れとして切実に響いた。このあたりは武田砂鉄『紋切型社会』に詳しい。個人的には前作の『標的の村』よりも密着する対象が広がったことで視界が少しぼやけてしまったように思うけど、見て損はない映画だと思う。この映画を見にはじめてポレポレ東中野へ行ったけど、いい映画館だった。地下ってのがいいよね。平日の昼間なのに大盛況だった。おれ以外みんな最近ちゃんちゃんこ着たような年齢の人だったけど。
その帰りにはじめて中野ブロードウェイ行ったけど、ああいう場所に通うような人間になりたかったんだなあと思った。おれみたいなニワカもんでも興奮する場所だった。蓮實重彦の『ボヴァリー夫人論』が500円で売られていて驚愕した。買えばよかったな、『ボヴァリー夫人』読んだことないし背伸びすんのやめようと思ってやめたんだけど。中野ってめちゃくちゃ飲み屋もあるし絶対楽しいよな。大学生のうちに知りたかったよ。

 

『Mommy』はおれが好きなグザヴィエ・ドランの作品なんだけど、前作の『トム・アット・ザ・ファーム』があんまり気に入らなかったのと、以前ライター講座で知り合った人と飲んだときに「いかにグザヴィエ・ドランはクソか」という話を聞いたため見に行くのをためらっていた。そういうことをある人に言ったら「きみはもしかしたらぼくよりもグザヴィエ・ドランの作品をよく見ているのかもしれないし、実際才能のある人間はえてしてそういう態度を取りやすい。ぼくもむかしそうだった。でもきみはもう大学生じゃないんだし、そうやってシニカルな態度を取って色々なものを退けていたら損するし、その態度って恥ずべきことだよ」と言われてそのことばに素直に従ってその日のうちに見に行った。「才能のある人間はそういう態度を取りやすい。ぼくもむかしそうだった」ということばにはものすごく違和感があったけど、大人のいうことだからとりあえず従った、ら、『Mommy』は傑作だった。グザヴィエ・ドラン作品の中でも『わたしはロランス』以上にポップで、主題と技巧と物語がマッチしていて、最高だった。知らない人はいない大名曲「Wonderwall」を映画で使いこなすってのは並大抵のことではないし、その度胸もすごい。
グザヴィエ・ドランを夜の有楽町にひとりで見に行ったのは、大人にはとりあえず従っておこうと思う出来事だった。

 

なんだかんだ、おれは素直にひとの話を聞く方だ。だから、もっと人の話を聞きたい、説教してくれ。確かに自分より優れている人と認識した人の説教しか受け入れないけど、今のおれはほとんどの人間に対してさまざまな角度から尊敬の念を抱いているから、だれでもいい。おれに説教してくれ、そしてその後やさしく抱きしめてくれ。